2015年2月12日木曜日

生きているということがしたい

新美志保さんの写真と一緒にふりかえってみました。
2月1日の分も撮っていただいたので、また写真をみにいらしてください。

―つくる営みについて―



2月1日は大地窯で「やきもの」を取り出す日だった。12月のはじめに「野焼き」の方法を用いて焼いた私たちの作品が、土の中で眠っている。

ここへ足を運ぶのはもう何度目だろうか。もびのメンバーと参加者たちは、上野原で大地窯を開いたヴェロニカ・シュトラッサーさんを訪ね、土地の土から粘土をつくり、成形して焼くところまでを経験させていただいている。

全てが初めてのこと。私たちは全身で自然をとらえようとしながら。ヴェロニカさんはご自身の経験による学びを自ら更新しようと思考されながら。互いに新しい挑戦をいくつもいくつも繰り出し、積み上げてきた。





土を採取したまさにその山にぽつんとあいた穴、その中にぎっしりと「形」がひしめいているところを思い浮かべながら、上野原へ向かう。

当初半年で終わるはずだったプログラムは現在14ヶ月目。
私たちが住んでいる場所から大地窯までは、簡単に様子を見に行ける距離ではなく、さらに私たちの計画とは頭の中だけのもので、自然のもたらす変化は一つの工程を終える度にいつも新しい条件を示した。
土に「ねばり」がそなわるまでただただ待つこと、高い温度で十分な時間焼くこと、焼いた何倍もの時間をかけてゆっくりと冷ますこと。それらの時間は最初からははかれなくて、目の前に現れたら、現れたそのままと一緒に歩き、向き合っていかなくてはならない。
"Slow" なのではなくただこれが、自然からいただき、気候や天気の変化の中で「形を成す/得る」のに最低限必要な時間だった。
私たちは日常と大地窯での時間の流れとを何度もすりあわせ、ときに自分の「日々」に呼び戻されて焦りを覚えたりしながら、それでもこつこつと作業を進めていった。



足で粘土を踏むプロセス。ダンスのステップを見ているみたい。



梯子をかけるためにきりとられている床の四角い穴に落ちてしまわないよう、みんなで目を配って見守っていた小さな子が、今では自分で梯子を上り下りし、見ていると、出来るからあっちにいっていていいよ、というジェスチャーをする。言葉もたくさんになってきた。







長過ぎはしないけれど、確かにそれだけの時間が経った。
穴の中で雨や雪に浸りじっと掘り出されるのを待っていた器の乾燥を含め、完成の頃、上野原の山々は春を迎えているはずだ。


お昼には毎回のように、ピザを焼いたり、それぞれの料理やお土産をふるまったるする。
ヴェロニカさんの器でいただくお茶やコーヒー、甘酒などの味は格別。



「器を、土から、自分の手でつくる。」
それが私たちの共通の行為、はるばる上野原まで集まった理由。
でも今考えればそれは、きっかけだったとも、口実だったとも言える。
器づくりをしていなくても、まぎれもなくこの場に「ふれている」「参加している」人たちが、とけるように歓迎された場所だった。

―ヴェロニカさんやヴェロニカさんの生活と、子ども達が出会ったら―

『もびのアトリエ遠足・大地窯編』は、物が作れなかったとしてもそれさえできれば、と始めたことだった。



大人も子どももみんな、大地窯や、大地窯をつつむ自然の中で、才能を羽ばたかせようとしている。
競争をするためではない。
あえて言うならば、ヴェロニカさんに「すばらしい」と言ってもらいたくて。
しかしヴェロニカさんは、何かをまねしたり上手に仕上げたりしても、決して「すばらしい」とは言ってくれなかった。
たとえ「昔の自分」が作ったものであっても、それが「まね」であれば同じこと。
あるいは奇をてらっても仕方がない。

「心にある、本当のものをつくってください。私からのお願いです。」

いかに自分と対峙したか。どのように自然の声をきいたか。常にそれが問われている。
だから本当はヴェロニカさんが「すばらしい」と言う前に、これがよいものなのか、そうではないのか、こたえは自分の中に出ていたのかもしれない。



あれこれと考える前に、対話をする相手は山であり、土であり、粘土であり、火であり、お天道様であり、それらは私たちが都合良く与えた枠組みや形に、簡単にはこたえてくれない。ヴェロニカさんにすてきなことばをもらったとしても、である。

せっかく思い通りの形になった粘土にぱっくりとひびがいる。薄くなめらかに、と手を加えていたら穴があく。何度もやっているうちに粘土が乾いて、もう一度捏ねるところからやり直し。
日は容赦なく暮れる。
日が暮れたら粘土の様子が見えなくなる。




―同じ状態を保つ―

火から学んだことはとても多かった。ぱっと燃え上がってすぐに消えてしまう木やゆっくりと燃え続ける木を知って、ヴェロニカさんの指示を仰ぎながら必要なものを山から集めてきた。風向きが変わったり、強くなったり弱くなったり、6時間火を保つためには私たちは様々に変化していく必要があった。









―器を取り出した時のこと―


山の中に小さな歓声が響いている。
ひとつずつゆっくりと取り出す。みんな、どんなふうになってもここまでやったのだもの、と自分に言い聞かせていた。

想像したよりも多くのものがそのままの形で残っている。割れているものももちろんある。
子どもたちはかけら同士を、もとの形が思い出せるように並べようとする。ひびやはへんを、言葉少なに受け入れようとしている。かける言葉はあんまり見当たらなかった。適当なことを言ってしまったようにも思う。

誰かの描いた文様が縄文土器にもあるものだと、土器の発掘調査にたずさわる方が言った。
私はなんだか嬉しくなった。
こんなに一生懸命取り組んで私たちは、何千年も何万年も前の人と似たようなことを考えている。何気なく、同じ模様を描いたなんて、とてもすてきだと思った。

芸術の固有性や発明は同時代にこそ斬新にうつりインパクトを与えていても、巨大な時間で見てみれば同じようなことがたくさんあるのではないかしらと思う。前の時代を受け取って続く時代に様々に現れ、繋がりながら断絶する。そのうちにまた廻ってくる。

もちろん使っている道具の違いもいわゆるテクニカルな「進歩」もあるし、「発明」とはそう簡単に生まれるものではないんだろう。私には好きな作曲家がいて、その人のつくるものの中で他のどの人とも似ていない部分を好きなんだと思うことがある。それからきっと、同じ時間は二度とない。

でもなんとなく、私たちは個人の生のうちに、時代の連なりのうちに、人間という生物を円を描きながら全うしているように感じる。意識的に無意識的に周囲と手をつないだり、受け渡したり、距離をとったりしながら。
円というと同じところをぐるぐるしているようだから、螺旋と言ってみよう。全く同じではないけれど、昔と、あるいは他の人と、同じ角度や座標をたどっているような。

生きている人々が新しい視点をもらうこと、あるいは生活の中に生き生きとした喜びを見出すことが繰り返され廻り続けているということ。それが尊いのだと思う。芸術のことを考える時、そんなことを思う。




―安全と危険―






子どもたちは土の採取をした日から一年以上かけ、山と戯れながら親和してきた。
急な斜面での土集め、薪集め、丈夫な蔦でのターザンごっこなど、私が経験してきた今までの子ども向けプログラムでは難しかったな、と思われることをたくさん通過し、今では山遊びも見守るだけになった。
いつもいつもこんなふうには出来ないだろう。それでも今回は環境や人がそろい、これらの活動や遊びが「可能なこと」のひとつだった。

山はそれぞれの子どもが持つ力によって、挑戦をする環境を適切に提供してくれた。
自然には「全部がある」ということかもしれない。
大人達は見守りながら、半分を山にまかせていた。
ヴェロニカさんは子ども達の力を信じていた。


子ども達がたぬきに会ったと教えてくれた。小さくてふわふわで、じっと動かなかったという。
これは薪拾いのときにある子どもがみつけたもの。宝物のように大事にしていた。
鹿の角は生え変わるものなのだそう。
ヴェロニカさんが別の日にもう片方をみつけたと話していた。



ヴェロニカさんがこの言葉で一日を総括したように、大地窯の2月1日は平和というにふさわしい時間だっただろう。

同時に、遠くの国で命をたたれた人々がいた。
ヴェロニカさんはこの日の開催自体を検討しなおしていらっしゃった。
地球のどこかでかなしいできごとが起こっている中「喜び」の営みをすることに対して疑問をもたれたのだろう。前日にヴェロニカさんたちと電話で話しをした。

私は中止にすることがあまり考えられずにいた。
「生」の選択をしていたい。
考えないのではない、接しながら生きていく。知りながら、生きているということがしたい。






―祈りは―


ヴェロニカさんは祈ることの提案をしてくださった。
私は「祈り」の方法を自分が知っているとは思えなかったが、大塚惇平くんの笙と一緒に鍵盤ハーモニカを吹くことにする。

息を入れると自分が震えているのが分かった。
これはいつものこと。ピアノを弾くときも、トランペットを吹くときも、アコーディオンを奏でるときも、人の前で楽器の音を出すときは、いつでも震えから始まる。
震えの中から自分の軸をみつける。引力に任せられるポイントを探す。

笙と鍵盤ハーモニカのピッチのずれは大きい。
成り立った文化がことなっている。
ずれの中に、それぞれの楽器を司っている秩序みたいなものを超えていく、波の束を探す。



ふと、目の前にいる人たちが今何を考えているのだろうかと恐れる気持ちになった。
恐れると周囲より強くいようとする気持ちがわく。
追いつめられた気持ちの中でそれを捨てる。

演奏しているうちに、惇平くんと呼吸がそろう。
そのシンクロを突き放さないように手放す。




今度はみんなで声を出した。自分が思ったように出す。出さなくてもいいことにした。
声をきいても、沈黙をきいても、この場にいる人々の思っていることなど分からない。
本当に不安な気持ち。
生きていくことはこんなやりとりの連続だろう。


演奏家なら、最初から震えを超えていなければいけないんだろうかと思った。
私はいつも震えの中からしか始められない。


周りにいた人たちからいろんな言葉が返って来た。起こったこと、祈りのこと、今日の私たちのこと。
答えは出ないまま。




東日本大震災から数日後のこと。「怒っている」と言葉にして言ったとき、それをしてはだめだと止めてくれる人がいた。私はかなしくてかなしくてしゃべることが出来ないほど泣いた。被害の状況、大変な状況におかれている人々、原発事故の状況と対応、報道そのもの、情報は少ないようで、自分の中にどんどん入って来た。未熟な自分が感情の波にのまれてしまった。

今、怒りというのは静かに自分自身で認めなければならないということを知った気がしている。怒りを人間である自分から追放するのではなく。それではきっと人間がこわれてしまう。
だけれども、認めた後、行動にうつしてはいけない。
怒りとは、行動にうつしてはいけない感情のこと、と言っていいのかもしれない。

静かに自分をなぐさめること、人に力をかりることもできるかもしれない。
でも決して怒りの行動をしてはいけない。

これからは、怒りの行動を選ばない方法と、生きる選択をする世界を、全く異なる考えの人々と共に探していかなければならないだろう。本当はずっとそうしなければならなかったはず。
その時祈りは有効かもしれない。本当の祈りがなんなのかという問いに答えは出ていないが、怒りには祈りが関わってくるのだろうと今思っている。

生きているということがしていたい。誰もが生きるという選択のできる世界であってほしい。






ヴェロニカさんは「一人一人が水晶のようです」と言った。

大地窯に集まる人々のそれぞれがにじみ出ているのは造形においてだけではなかった。それぞれの日々が、仕事が、人となりが、じんわりとその場を作っていった。

大地窯は「全部がある」場所であり、自分で何かしなければ何も起こらない場所でもあったから。

そしてそれはどんな時でも一緒のことなんだろう、と改めて思う。